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ぶらりと見たもの

  • 201107野崎氏陶展5
    ぶらりと出会ったもの。実は写真をとるのは苦手です。
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雑感

2012年5月 2日 (水)

ぶらりと”自分?”

自分探し。ある意味、使い古された言葉である。出来事はすべて脳の中でおこるなら、自分と出会おうとしているのは誰なんだろう。出会うということ目で見、喋るということだろうか?ひとり、ぼけつっこみをすることだろうか。なんだか、ぴんとこない。根拠として視覚・感覚を新しく探したり、確認したり、整理したりすることだろうか。見てきたものにも、感じていたものにもその答はなのだろうか。考え方の整理も今まですでにしてきているはずではないだろうか。たぶん、人は自分の奥底に巨大に広がっているもの、無意識のような領域から時折何かがやってくることを知っている。だから、「今とはちがった何かへの気持ちの高鳴り」を感じたいだけではないだろうか。「その気持ち」はきっと自分と関わる出来事の関係をつくりだす源のエネルギーのようなものではあるが具体的方向を持つものではない。でも、「その気持ちは」生きることにまつわる出来事を繋ぎ合わせていく大切なものである。「その気持ち」は生きものとして共通しているものであるように思えるし、互いに共鳴するものである。だから、「その気持ち」は自分とは直接関係がない。自分も思考(出来事)の連鎖のひとつの結果であり、脳が一時的に作り出している環境と個の接点像と思う。人間は出来事の連鎖の関係に喜びを感じてしまった。しかし、偶有性の伴った自然の出来事連鎖の関係への本来的喜びではなく、客観という幻想からの安定な出来事そのものに縛られてしまった。出来事を私物化・価値化しようとする。我々は偶有性のある連鎖の関係生成こそ生きている幸せを感じると思う。たとえ自分が終わろうとも。
 表現とはなんだろう。きっと、それは主観や客観の出来事とは違う「その気持ちの」投影であるような気がする。現代においてはそれを守り、伝えなくてはいけないのだろう。その投影から生じる出来事の関係をもっと感じたいと思う。

2011年9月 5日 (月)

ぶらりと”縄文杉”

休日の10時すぎと14時すぎは気分がフラットとともになり、それゆえ、不思議な余裕?感が一時出てくる。こんな時間は最近、特別な意味があると思う。僕はほとんどTVは見なくなった。マス・メディア空間の粘つきが嫌いなのかもしれない。でも、たまにTVのスイッチを入れることがある。そんな時、不思議に今気にしていたことにぶつかったりする。なんだろう、いつも不思議に思っている。
 先日、NHKの世界遺産を見た。屋久島の自然を映していた。それを観察、守る人たちの生活と活動。番組は樹齢7200年の縄文杉をシンボライズするかのように自然の大切さを語っていた。番組を見ていて、「確かに自然は脅威だな」と思った。全く語らない縄文杉・・・ん?と思った。この世の中には「全く語る必要のない世界」あるということだ。いや、語れない世界が確実に共存している。人は自分の中も自然をもっている。「動く」「息を吸う」といったことは突き詰めると「どうやって」なんか考えられないという話がある。言葉で「知る」を重ねても到達できない「自然」が実は非常に多くあり、意識のため人間はほんの一部にしか生きられないし、さらにそれに気づいていない。近代以降、我々は「表現」さえ、決め付けてきたのではないだろうか。言葉でない「自然」への共感的手法が望まれているのではないだろうか。それがある意味、現代に必要な「表現」の源ではないのか。それには、自分の身体の「自然」に対面する必要がある。そいつは一切、語らないが。

 

2011年7月10日 (日)

ぶらりと”考えと無限”

梅雨明けになっても意識の湿度はなんだかまだ高い今日この頃です。意識は無限に広がっているのだろうか。自分の考えは自由が前提と言う人もいる。なんだか、ぴんとこない。無限や自由なら際限なくゆっくりやればいい。時間なんぞ気にしなくていい。無限や自由はなんだかあやしい。身体は有限である。つねると痛いし、ちゃんと皮膚という境界がある。当たり前である。生まれて、生きて、死ぬのである。心臓を動かしている無意識も有限なんであろう。「一つの生」としての話ではあるが。有限であるからこそ価値(個)が生まれる。有限(個)であるからこそ表現が生じる。そう考えると我々は誤解している。本質は考えてもしかたないのである。ただ、結果が先回りしだすだけである。「○○」だから・・である。最近、考えから始めるのはなんだかあやしいと思っている。動くと結果が生じてくるだけである。あとから、「考え」らしきものはついてくる。その「考え」は自分(個)のものではない。動く要素のひとつにしか過ぎない。・・・なんて考えると「個」もまた「個性」とは異なっていくような気がする。むしろ自然に近いのかもしれない。

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