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ぶらりと見たもの

  • 201107野崎氏陶展5
    ぶらりと出会ったもの。実は写真をとるのは苦手です。
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演劇

2013年5月 4日 (土)

ぶらりと”身体”

 前回ブログ書いてから8ヶ月以上もたっている。驚く。時間というものが速いのだろうか?その力が分散してしまったからだろうか。自分は何をやっていたのだろうと問うてみる。どうやら、地球上にはまだいるようだが立っている位置がなくなっているような気がする。主体という境界がどんどん不明瞭になり、自分というものを作っていた粒子が雲のように拡散しているような気分である。といいながらブログを書いている。病んではいないんであろう。でも、自信満々の人をみるとゴブリンにみえるようになってきた。
 演劇についての考えも壊れては再構成され、また壊れている。ぶつかっているのは身体とはなんだろうである。私は周りから言葉の使い方が不自由(難解)とよく言われる。だってある言葉は何をさすのか人によって違うのだから大変だと思う。でも、最近思うのは身体である。人にお前の身体(動作)はよくわからないと言われた事はない(いや、少ない)・・よく考えるとこれはこれで怖いのではないだろうか。ある人に「最近、貧乏揺すりがひどいですけど、体が動きたくてしかたないんじゃないですか?」と言われたとき正直ドキッとした。なぜって?・・じゃ貧乏揺すりをしないかわりに何をするのか?という疑問が湧いた。たぶん・・屈伸とかヨガをするのかな?である。毎日、いろんなことを考えてはいる。でも、頭はたいして動かない(きっとさほど使ってないのだろう)。  
 で、身体は??・・日常的にさほど使ってない。では、身体を使うとはどういうことなんだろう。思考が言語なら行動は探索ではないのか?探索しないと生き物として大変ではないのだろうか。言葉と言葉の間を埋めるのも行動であろうけど、言葉が生成する源は身体(探索)のはずである。それを動かしてないという事は言葉をどんどん外部から取り込んでいるだけなんではないだろうか。・・TVをじっと見ている家族を見るとゴブリンに見える。といって、ジョギング(目的)とか自転車(道具)はちょっとちがう気がする。音楽も自分の場合、楽器(道具)を使う。
 いかん・・なにかが足らない。演劇の前にこの問題はもっと大きいかもと思った。

2012年8月26日 (日)

ぶらりと「平田オリザの仕事」

 中古書でもいいから読んでみるかと「平田オリザの仕事」を読んだ。今更、目から鱗であった。主義主張・作為を演劇で伝達する時代は終わった。とすれば演劇は可能か?リアルな出来事・ありのままの世界を記述することのみ演劇の意義は残される。役者に表現をさせてはならない。役者を表現の不自由さから開放する。喋れない台詞はありえない。表現は主義主張・技術に繋がってしまう。戯曲に世界を描く、そこで役者は翻弄するだけでいいという。役者の責任は自由に台詞を言え、作品に関しての責任などない。演出者は世界観を理解し、役者を監視・助言する責任。作品に関する責任は戯曲家だけでいい。私はずっと人間とは何かを表現しつづける。実に明解な内容である。
 でふと考える。”なぜ”という問いは人生に必要なのか?真実・意義を見出すことは大切だけど非常に困難だし個人的なこと。意義はある意味、批評に繋がる。そんなことより丸ごと観察して、描いてみろ、描く中でしかリアルは生じないのではないかと。書くのではなく、描くということなんだろう。その結果、自分の知らなかったものに出会える。演劇は現実にできることと意識の循環・反復し、それを共有し、新しいものを創りながら感じる過程にこそ意義があるし、これからの社会にもそこが非常に重要な気がする。やりっぱなし・・感じぱなし・・回数があって連続に見えても何も生じてはいないことは周りに多いと思ったりする。
 しかし、この時期にまた読んでしまうとは。よっぽど自分は鈍感なんであろう。

2012年8月15日 (水)

ぶらりと”退団”

ぶらりと”退団”
 演劇集団らせん第5回公演「秋の千草」が終了した。ご来場頂きました方々、ありがとうございました!今回はこれまでの作品とは違い、日常生活の舞台でした。毎日、人間は日常を反復するがその中に気が付かない恐ろしいほどの可能性を膨らましていく、それが現実で不連続なものとして現れることがある。しかし、人間はその状況でまた反復しはじめるとてつもない力をもっている。生きていることは瞬間に閉じ込められている。誰にもわかるはずがない。私にとっても意味深い作品でした。

 私はこの集団に入り、一番感謝していることは人間が真摯に表現するという場を与えてくれたことだと思っています。ある意味、非常にレベルが低いと思われるかもしれません。しかし、自分の思いと役の思いをおき、その間で立ち上がるものを現実に出してみる(表現する)ということはなかなかできる機会はありません。さらに、環境と自分との関わり合いが舞台では立ち上がってきます。そうなると、自分が希薄になっていきます。演劇の要素のひとつとして溶け込む感覚が生まれてきます。・・・ふとそこで思います。これって人生に近いし、逆にとても自然なことではないだろうかと。たぶん、大切な演劇の要素の一つはそういったことを見つめていく意識と現実化しようとする行為なんだろうと。また、それは人間としても人生(反復)において大切なことなんであろうと。
 前回、ブログに境界について書きました。舞台というものに敷居(境界)を置くという考えもあると思いますが、境界がないものを創るということにも意味があるとも思います。演劇集団「らせん」にも境界はないと思っています。「らせん」は反復なんだと思っています。
Photo_2

稽古の反復からたまたま生じた絵

2012年6月29日 (金)

ぶらりと”らせん第5回公演チラシ”

演劇集団「らせん」の第5回公演チラシができた。演劇にまつわる境界にはいろいろある。心?体?役?道具?お客さん?舞台?会場?・・いろんなものが出てくる。とても人にまつわるものに似ている。きっと演じるということは人を感じ、動き、知ることだと思うようになってきた。さらに言えば、個を超えてしまうことかもしれない。個性といったある意味外見をひん剥いた先にあるものと今の自分とを問いかけるために「稽古」しているのではなかろうか。ある意味、過去ではなく記憶を最大限に生かし、自分とまだ知らない未来との関係を生成していくことなのかもしれない。
 今回の作品はこれまでの4回とは全く異なる。ある意味、「らせん」がやっと一回まわったような微細な違いを体験・実感できればと思う。夏至は過ぎた。収穫までの時空をじっくり感じたい。8月12日、さらに「らせん」するために。・・・チラシはクリックすると拡大されます。

20120812_2

2012年5月 2日 (水)

演劇集団「らせん」公演情報

2年ぶりの第五回公演決定!
「秋の千草」
8/12日(日)南足柄市文化会館
http://engekishudanrasen.vci.vc/

 ことしはこれまでとは違った「らせん」の一面が見えてくるかもしれません!

2012年1月16日 (月)

ぶらりと”初稽古”

 今年、第一回の「らせん」の初稽古がいつもとかわらなく行われた。別に「らせん」はたつまきでもないわけで新たな気持ちなんてものはない。ただ、ひとつ違ったのは、みんな台詞を頭に入れてくるという約束があった。いつも、思うが台詞が頭に入りだしてくると違ってくる。台本をもつ手が空くからである。これが全てを変える。動き、視野が開放される。何を見ても自由。感覚が放り出される。コミュニケーションの連鎖が自己産出系が発生する。全くの複雑性の世界。練習では一言が思いのよらないシーンをつくりだしていく場合がある(いってみればバタフライ効果)。非線形の世界である。本には書ききれない世界の生成と消失を繰り返す。ある意味、全く当たり前であるが。でも、今回の芝居は情報(テーマ)の伝達以外の面が大きいと思う。我々にとっては初めての試みだと思う。今年の稽古は苦しく、楽しく、長い。偶有性(全くでたらめでもなく、可能性がないわけでもない)との戦いである。
 そういった表現(言葉・演技)の連鎖や自己産出系(生成・消失)をある意味、活性化するためにtwitterも使えるのではないかと思ったわけです。何もしなければ何も起こらない。何かをしても何かが起こるわけでもない。でも、偶有性は楽しみたいものです。

2011年8月 7日 (日)

ぶらりと”自己生成システム”

人間もまた自己生成システムの一つという考えがある。その「自己」の根源は自分をつくる要素を産出し、産出したものがさらに要素をつくるサイクル(自己)の力である。原動力は動くという力(作動)であるという。視覚を考えると我々は「見たいもの」を見てるにすぎない。しかし、実際、見るという行為によって見方(意味)が変わる時がある。つまり、行為が自己を変えていくのである。・・・演技とは?・・思うに、演技者に「演技」という価値は存在しない。それを評価している時間軸など存在しない。「行為」があり、その行為によって五感を通じ、新しい要素(自己)が発生し、サイクルが生じる。その単純さこそまずは重要に思える。でもその単純さは個人によって違う。そうでなければ、行為は連続できないし、干渉しあわない。「演技」という言葉はお客さん側にあるものなんであろう。最近、自分を取り囲む、自分の内側・外側を含めいろんなネットワーク(サイクル)が少しづつからみ出していることを感じる。・・・かいかぶりかもしれないが。稽古の瞬間・瞬間の微分の領域時の関わりにすごくわくわくする。

2011年7月25日 (月)

ぶらりと”陶展2”

下北LA CAMERAでの野崎真治郎氏の陶展に行ってきた。ますます、器と身体の等価性が強調されていた気がする。人もまた器である。人は器である以上内容物が存在するように思えるが、それはある意味抱きかかえているに過ぎない。そんな気がしてきた。その中にそれぞれの生命力を秘め、育つ。互いに共有できない中身と思われるものがそこにはある。器の中身を食すと同じように人間という器の中身も人間のために存在するだけに思える。誰のために・・とはある意味違う。鑑賞にきた人間も個展という舞台に溶け込んでいる作品に他ならないのではないかと思った。野崎氏と一緒に日本酒を飲んだ。酒が飲める個展。酒によって自分の感性がどんどん変わっていく不思議な経験をした。日常の感性は一つの意識の側面にすぎない。こんな個展のありかたも素敵だなと思った。ふと、徐々に増えてくる鮮やかな色彩・形は空間への新しい挑戦のようにも思えた。身体性と空間との関わり・・有と無をひっくりかえせば我々はこの世界の内容物である。あでやかな器(内容物)の境界の色は虚しい感覚・幻想のようにも感じた。面・空間の境界、存在によって作品(身体)が立ち上がってくる。身体が意識を抱きかかえる。その意識は様々で変化する。意識が身体を抱きかかえることは決して出来ない。
2011_nozaki

2011年6月26日 (日)

ぶらりと”パパ・タラフマラ解散”

そのニュースを聞いたとき、衝撃まで受けなかった。あの身体性への挑戦といったものが、完全に記憶という安住の地に入り込んだからであろうか。・・それは違うと感じた。意識のどこかで小池氏の挑戦のようなものにむしろ賛同していたかろであろう。身体性とコミュニケーション・・自分はそれがこのパフォーマンス集団のテーマだったと思う。しかし、テーマとはなんだろう。テーマはある意味、階段にすぎない。前表現の領域への挑戦はそんなものではない。小池氏はパパ・タラフマラの魂を自発的に再構成してみようとしているのではないかと思う。あらたな表現への挑戦が始まると期待してしまう。だから、ファイナル・フェスティバルにはこの目で見ておきたいと思う。
http://www.ustream.tv/recorded/15582217

2011年6月19日 (日)

"稽古”

今日は久しぶりに演劇の稽古に参加できた。演技の技量はさておき、ふと、稽古場に情景が降りてきたと感じた。こういう感覚は今までそんなに気にしなかった。しかし、最近、すごく気になる。台詞自体よりも気になってしまうことがある。バーチャルリアリティーといってしまえばそれまでだろうが。不思議になってきた。自分と相手役と環境という関係で何とかしなければというものより、無限大の情景が自分に覆いかぶさり、突き放す。ちょっと台詞を喋るのをやめて、その世界に佇んでいたいような。今日は次回作に向けて話し合った。つまり、ついに発生した。

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