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ぶらりと見たもの

  • 201107野崎氏陶展5
    ぶらりと出会ったもの。実は写真をとるのは苦手です。
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2011年12月 3日 (土)

ぶらりと”知恵の樹”

目からうろこな本に出会うことがある。自分にとっては「利己的遺伝子」(ドーキンス著)を読んだ時だったろうか。「知恵の樹」(マトゥラーナ、ヴァレラ著)を読んで、そんな感じに襲われた。この気持ちは久しぶりである。世界観がシフトするぐらいの衝撃があった。この前、飲んで話をしていたら私の考えは「スコラ哲学的」と言われた。なんじゃそれと調べてみた。キリスト教の基盤を支える理論のひとつで、世の中を操っているものはなにか普遍性とはなにかをつきつめると誰にもわからない領域に達してしまう。そここそが神が創った領域だと考えたそうだ。その考えを引用的に鉄の城のように武装する理論体系を持っているらしい。私の考えのどこが「スコラ哲学的」なのかさっぱりわからなかった。神の存在などどうでもいいし、自分のことを理論的だとは思わない。ただ、身体がおいてきぼりになっている。いつまでたっても「頭でっかち」なのは確かかも。「知恵の樹」の考えはオートポイエーシスに立脚している。この本を読むと細胞システム・感覚システム・筋肉システム・心的システム等が同原理で動いていると考えるものである。それは互いに全く独立していて、カップリングだけが可能という考え方である。そのシステムの中では客観という考えは消失する。だから、喋ると動くは同時にできないのが普通なのである。体が勝手に動き出してしまうのも普通なのである。しかし、やっかいなのは社会システムである。個人があつまって、言語を用いて社会システムをつくっているが、当然、言語は自己認識と深くかかわる。つまり、自己主張や思考という狭い領域のためだけに言語はあるのではない。社会に存続するためにあるのである。その社会と何だろう。それは持続的価値が共有されている世界であると思う。それを新しく作っていくための一手段として言語がある。しかし、それを弄り回しても最終結果など出ないのである。結果を出しているものは何か?それは動くという途方もない現実への行為なのである。動くことで時間が生じている。動くことでまた考えることができるのである。しかし、動くは考えで生じるものではない。思想、意思、自己、行為とは独立した、太古から脈々と動いている、因果を超えたサイクルが我々の中で回っている。偶有性を生み出す源。それがカップリングしている。それは知りえないが内感はあるような気がする。最近、自己主張・個性ということに対する考え方が自分の中で壊れ、再構成されている。「頭でっかち」・・あらためて、口に出して言葉の意味を考えてみる。頭の重さは体重の約10%。すんごく重いけど普段感じない。体は何も教えてくれない。なんか、少し、笑える。文章を読みなおすと「しかし」が多いこと。でもこのままでいいか(笑)。

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2011年5月16日 (月)

ぶらりと”基礎情報学”

やっと読了。基礎情報学+続 基礎情報学(西垣通)。これからの情報社会における心、身体と社会(メディア)との関係においての提案が書かれています。客観社会なんてものはない。正義、現実も虚構にすぎない。我々は人間関係を自己創出的に創り出し、その人間関係が上層システムにおいて現実という像を作り上げているだけである。当たり前といえばそうかもしれない。でも、これは人は一人では幸せになれないし、コミュニティに属せば必ず幸せなれるかといえばそうでもないということである。その、基盤は行為とともに身体性から発生している。それが言語表現に変換される。その変換のプロセスこそが非常に重要な意味をもつ。さらに、一人称から三人称の橋渡しがさらに重要なことである。読んで、そこにはやはり演劇というものがすごく重要な意味があるように思えてならなかった。別に演劇を既存の芸術性でどうのこうのは関係ない。自分は行為として演劇を選んでいるのであろう。大切なのは個を超えた地平をもつ集団ができるということなのであろう(できるかどうかなんてわからないが)。現実は結果にすぎない。さぁ、ぼちぼち読書は休もう。やること山積みだった。。

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2011年3月 7日 (月)

ぶらりと「こころの情報学」

この本は興味深いでした。我々はどうして言葉を使うようになったのでしょう。そして、言葉はどうなっていくんでしょう。本の中身をあんまり言うのはなんなのですが、、、言葉の発生は予測としての目的があったのではという考えがありました。つまりは「噂話」だと・・社会の中で自分を存続させるための手段。同時に、思考するための手段。両刃なんですね。権力と自己とのバランスで言葉を我々は使ってるのを再認識しました。「噂話(噂言葉)」で確実に人は傷つくわけです。「噂話(噂言葉)」で自分の立場を確認し、保護している。・・でも、もっと、重要なのは自分の考えを整理するために言葉は存在している。言ってみれば、言葉(の使い方)はその人自身の人格なんですね。自己と向き合っている人ほど言葉に悩んでいるわけです。言葉は本質的には、厳しく自分に返ってくるように使うものなんでしょう。で?本には書いてありませんが・・台詞って?になるわけです。それは、腹に落ちません。でも、言葉になる(台詞になる)前にその使い方(使える可能性)は決まっているとやはり思いました。だからこそ、台詞にすればいいもんじゃないという世界もあるのかなと・・だめだ、言葉の使い方がやはりわかっていない自分。。。
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2011年2月11日 (金)

ぶらりと「風の旅人」

ぶらりと立ち読みすると実に大変な雑誌でした。言葉というものはなんのためにあるのでしょう。私たちの目はなんのためについているんでしょう。私たちがいる世界は何なんでしょう。そんな問いかけが自分の胸を突き刺します。そんな雑誌です。宗教とか民族とか哲学とかそういった視点ではなく、本来、自分と共存してなくてはいけない意識や思考。それは、知らずに避けきっているかもしれません。無意識に逃げるのは日夜、我々は勝手に自然にやってます。でも、無意識にぶつかることはやってない。そんなことはできるか?・・そうなんでしょうか。それも思いすごしかもしれません。うまく内容を伝えられませんが、読みごたえというより感じごたえのある雑誌です。
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2011年1月 6日 (木)

ぶらりとユング

いまさら、ユングを読んでみた。古びてしまった教科書かもしれないが、読んでみると面白い。言語、意識-心像-無意識, 自我, 自己。意識も宇宙、その宇宙の中を上下、左右もわからずに冒険しているような面白さがある。ふと、台詞というものを考えるとそれは自我に似た氷山の一角に聞こえるだけなのであろう。その深遠な深いところの普遍的な無意識で観客はシンクロするのではないだろうか。もしかするとそれは役なんてものは一義的な見方にすぎないかもしれない。役があって台詞があるのはひとつの見方にすぎないかもしれない。また、因果律という視点は納得感、お得感があるだけのような気もする。ぶらりと読んだ割にはこれは今年、尾をひきそうな気がする。
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