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ぶらりと見たもの

  • 201107野崎氏陶展5
    ぶらりと出会ったもの。実は写真をとるのは苦手です。
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2011年9月

2011年9月25日 (日)

ぶらりと”コーララッパ”

大道芸人のビデオなのであろうか。そんなことはどうでもいい。この動画を見ていてモノとの関わりって自由であっていいのだと思った。我々は決められた枠の中で、決められた手段を探して、実践している。確かにそうだ。でもそれは、ものの見方、自分のありようを勝手に決め付けてるのだろう。この動画のミュージシャンは生活にさらに溶け込んでいるように見える。溶け込んでいる・・社会との関わり方も自由でいい。それは、自分という境界にゆらぎがどれだけあるかということなのか。ゆらぎというか、自分の境界なんて毎日、壊れ、最生成されると考えたほうが毎日がすばらしく見えるのではないだろうか。真黒な闇の中に放置されると人は自分の境界がわからなくなり、気が狂うと聞いたことがある。自分という境界はそんなもんである。止っていると存在しない。自分というものは結果ではなくプロセスなのである。プロセスから音は生まれる。
http://www.youtube.com/watch?v=runopLiMPY8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nFPEi7PdKdk&feature=feedf

2011年9月 5日 (月)

ぶらりと”縄文杉”

休日の10時すぎと14時すぎは気分がフラットとともになり、それゆえ、不思議な余裕?感が一時出てくる。こんな時間は最近、特別な意味があると思う。僕はほとんどTVは見なくなった。マス・メディア空間の粘つきが嫌いなのかもしれない。でも、たまにTVのスイッチを入れることがある。そんな時、不思議に今気にしていたことにぶつかったりする。なんだろう、いつも不思議に思っている。
 先日、NHKの世界遺産を見た。屋久島の自然を映していた。それを観察、守る人たちの生活と活動。番組は樹齢7200年の縄文杉をシンボライズするかのように自然の大切さを語っていた。番組を見ていて、「確かに自然は脅威だな」と思った。全く語らない縄文杉・・・ん?と思った。この世の中には「全く語る必要のない世界」あるということだ。いや、語れない世界が確実に共存している。人は自分の中も自然をもっている。「動く」「息を吸う」といったことは突き詰めると「どうやって」なんか考えられないという話がある。言葉で「知る」を重ねても到達できない「自然」が実は非常に多くあり、意識のため人間はほんの一部にしか生きられないし、さらにそれに気づいていない。近代以降、我々は「表現」さえ、決め付けてきたのではないだろうか。言葉でない「自然」への共感的手法が望まれているのではないだろうか。それがある意味、現代に必要な「表現」の源ではないのか。それには、自分の身体の「自然」に対面する必要がある。そいつは一切、語らないが。

 

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