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ぶらりと見たもの

  • 201107野崎氏陶展5
    ぶらりと出会ったもの。実は写真をとるのは苦手です。
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2011年7月

2011年7月25日 (月)

ぶらりと”陶展2”

下北LA CAMERAでの野崎真治郎氏の陶展に行ってきた。ますます、器と身体の等価性が強調されていた気がする。人もまた器である。人は器である以上内容物が存在するように思えるが、それはある意味抱きかかえているに過ぎない。そんな気がしてきた。その中にそれぞれの生命力を秘め、育つ。互いに共有できない中身と思われるものがそこにはある。器の中身を食すと同じように人間という器の中身も人間のために存在するだけに思える。誰のために・・とはある意味違う。鑑賞にきた人間も個展という舞台に溶け込んでいる作品に他ならないのではないかと思った。野崎氏と一緒に日本酒を飲んだ。酒が飲める個展。酒によって自分の感性がどんどん変わっていく不思議な経験をした。日常の感性は一つの意識の側面にすぎない。こんな個展のありかたも素敵だなと思った。ふと、徐々に増えてくる鮮やかな色彩・形は空間への新しい挑戦のようにも思えた。身体性と空間との関わり・・有と無をひっくりかえせば我々はこの世界の内容物である。あでやかな器(内容物)の境界の色は虚しい感覚・幻想のようにも感じた。面・空間の境界、存在によって作品(身体)が立ち上がってくる。身体が意識を抱きかかえる。その意識は様々で変化する。意識が身体を抱きかかえることは決して出来ない。
2011_nozaki

2011年7月10日 (日)

ぶらりと”考えと無限”

梅雨明けになっても意識の湿度はなんだかまだ高い今日この頃です。意識は無限に広がっているのだろうか。自分の考えは自由が前提と言う人もいる。なんだか、ぴんとこない。無限や自由なら際限なくゆっくりやればいい。時間なんぞ気にしなくていい。無限や自由はなんだかあやしい。身体は有限である。つねると痛いし、ちゃんと皮膚という境界がある。当たり前である。生まれて、生きて、死ぬのである。心臓を動かしている無意識も有限なんであろう。「一つの生」としての話ではあるが。有限であるからこそ価値(個)が生まれる。有限(個)であるからこそ表現が生じる。そう考えると我々は誤解している。本質は考えてもしかたないのである。ただ、結果が先回りしだすだけである。「○○」だから・・である。最近、考えから始めるのはなんだかあやしいと思っている。動くと結果が生じてくるだけである。あとから、「考え」らしきものはついてくる。その「考え」は自分(個)のものではない。動く要素のひとつにしか過ぎない。・・・なんて考えると「個」もまた「個性」とは異なっていくような気がする。むしろ自然に近いのかもしれない。

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