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ぶらりと見たもの

  • 201107野崎氏陶展5
    ぶらりと出会ったもの。実は写真をとるのは苦手です。
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2011年3月

2011年3月28日 (月)

ぶらりと”ウオンさん”

音楽の好き、嫌いは何を意味するんだろう。・・その音楽を好きといってる人に何を感じるかだけではないだろうか。いつのまにか、我々は人を介して音楽を聴いてしまっているのではないだろうか。たぶん、音楽を奏でている演奏者と空間全体から生に放たれるものに対しての感受性が原点であると思う。と言いながら、最近ライブに行ってない。これまた、残念な限りだけど・・最近、ネットでウォン ウィンツァン(ウオンさん)という世界的癒し系ピアニストを知った。癒し系?・・・最初、ちょっと引いた。彼は、震災後から毎日のようにUstでピアノを弾いている。祈りをこめた癒し系音色といってしまえばそれまでだが、不思議なことにこれを聴きながら仕事をすると自分の意識の中庸に近づいていく。仕事が何だか落ち着いてはかどる。やる気とか使命感ではなく、素直に初心のスタートラインにつかせてくれる。それで、思ったのは人を癒すなんてたぶん非常に難しいことなんだろうなと。それではなくて、人は自分を癒す力をもっているんではないかと・・音楽はその力を膨らませるだけではないかと思った。Ustといえどもそこから生音が聴こえる。邪魔をされるでなく、なんとなく自分のリズムに干渉する。それが音の陰陽の一面かもしれない。
http://www.ustream.tv/user/SATOWA

2011年3月19日 (土)

ぶらりと「スーパーフルムーン」

最近の夜は月が明るいなと思っていたら。今日は18年ぶりスーパーフルムーンだそうである。スーパーフルムーンの年は破滅的災害が起こると言われる。実際、2011.3.11に悪夢が起こった。・・本当だろうか?そんなことはどうでもいいと思う。またと見れぬかもしれない美しい月がこんな折に関係なく見れるということが素晴らしいと思う。我々の世界(宇宙)には様々なリズムが存在する。1日、1週間、1年、3年・・・?さて、どれだけ想像できるだろうか。個人によって違うだろう。自分の場合・・タバコをすいたくなるのに20分、便秘が完全回復するのに5日、二日酔いが完全回復するのに4日、新しい仕事を理解するのに3年、ごく親しい人が亡くなるのが10年に一回、さまざなカイロス時間が思い出される。なら、自分の気づかないカイロス時間があるに違いない。自己に浮かんだ自我に存在の奥底からきている、あるいは世界全体からの未知のシグナル(リズム)があるに違いない。それらに対して常に耳を傾け、それを感じることは自我と世界の相変化を感じることになるのであろう。今、悩んでることやふと感じることも大切なリズム(相変化)の予兆であると思いたい。あせる必要はない。そんなリズムをいつか奏でたい。
http://bit.ly/gKQCvI

2011年3月15日 (火)

ぶらりと「kappa/或小説」

三浦基さん(地点)演出の「kappa/或小説」を見に行った。これまた、不思議な世界に連れていってくれた。舞台が芥川の脳?自分の脳?という感じがしてきた。現実と意識が交錯し、作品と行間が交錯し、意識と無意識が交錯する。言葉が生まれ・死ぬ。言葉が力をもつと自分から離れる。追いかけてるうちに自分が追いかけられる。いろんな対極の世界のエッジ感がカメラという映像でみどとに可視化されていたような気がする。映像と生身・・どちらが今を生きているんだろう。役者と撮られた役者どちらが本体なのか影なのか。河童がどんどん大きくなってきた。もう、河童の夢の中でしか自分が存在できないかのように。終わった後、かなり、喉がかわいてしまってました。癖になりそうな劇団です(京都ですが)。
(注:解説として全く適切ではないかもしれません)
http://www.chiten.org/

2011年3月 7日 (月)

ぶらりと「こころの情報学」

この本は興味深いでした。我々はどうして言葉を使うようになったのでしょう。そして、言葉はどうなっていくんでしょう。本の中身をあんまり言うのはなんなのですが、、、言葉の発生は予測としての目的があったのではという考えがありました。つまりは「噂話」だと・・社会の中で自分を存続させるための手段。同時に、思考するための手段。両刃なんですね。権力と自己とのバランスで言葉を我々は使ってるのを再認識しました。「噂話(噂言葉)」で確実に人は傷つくわけです。「噂話(噂言葉)」で自分の立場を確認し、保護している。・・でも、もっと、重要なのは自分の考えを整理するために言葉は存在している。言ってみれば、言葉(の使い方)はその人自身の人格なんですね。自己と向き合っている人ほど言葉に悩んでいるわけです。言葉は本質的には、厳しく自分に返ってくるように使うものなんでしょう。で?本には書いてありませんが・・台詞って?になるわけです。それは、腹に落ちません。でも、言葉になる(台詞になる)前にその使い方(使える可能性)は決まっているとやはり思いました。だからこそ、台詞にすればいいもんじゃないという世界もあるのかなと・・だめだ、言葉の使い方がやはりわかっていない自分。。。
http://amzn.to/f4dGts

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